裏館小学校PTAまつり「ジャイアント馬場さんを学ぼう」
新潟県三条市の裏館小学校(熊倉隆司校長・児童数455人)で、三条市出身のプロレスラーで名誉市民の故ジャイアント馬場(本名 馬場正平)さんのことを紹介する講演会が開催され、大谷翔平選手より60年も前にアメリカで大活躍をしたもうひとりの“ショーヘイ”のことを学んだ。
三条市名誉市民の馬場さんのことを紹介する裏館小学校PTAまつり「ジャイアント馬場さんを学ぼう」が10月21日午後1時半から裏館小体育館で開かれた。同校PTA(大橋健一会長)は子どもたちに面白くわかりやすく伝えたいと、講師は現役のプロレスラーで数々のテレビ番組にも出演しているスーパー・ササダンゴ・マシンさんと三条市スポーツ協会会長でジャイアント馬場倶楽部会長の中條耕太郎さんに依頼した。
大橋会長が講師の二人を紹介すると全校児童と保護者30人程が集まった体育館にマスクマンのササダンゴ・マシンさんとニジマスカラスのマスクを被った中條さんが盛大な拍手の中を入場した。
中條さんは「(馬場さんの伝記絵本)「うえをむいてあるこう」を読んだことはありますか?」と話し始めると「三条市の四日町出身で、昭和13年1月23日生まれ。小学校を卒業する頃には身長が175センチ、中学に行ったらもう190センチぐらいだった」と馬場さんを紹介。高校を中退して、(野球の)読売巨人軍に入団したがその時には2メートルくらいの身長で体重は145キロだった。
本名は馬場正平。
「“ショーヘイ”といったらみんなもよくわかる大谷翔平選手だが、大谷選手が活躍する60年も前に世界で活躍したのがG馬場さんだった」。野球が好きだった馬場さんに読売巨人軍からスカウトがきて入団。野球は怪我のため断念したがその後、プロレスの父と呼ばれる力道山を訪ね、入門。アメリカに渡り、悪役として活躍。トップイベンターとなった。「その時の年棒が10億円」と話すと子供たちからは「うぉ〜!」と大歓声。
1963年に力道山とともに帰国。リングネームを「ジャイアント馬場」に改名して活躍、プロレスの世界を極めた。
「こんなすごい人が三条市から生まれた」。2016年には三条市の名誉市民に認定されたことを熱く語りかけた。
ササダンゴ・マシンさんは「日本ではプロレスの試合が毎週生中継される時代だった」と自身の子供時代を振り返り、「海外の大選手を相手に激しい戦いをして、たくさんの後輩を育てあげ、61歳まで現役でリングに上がった」「すごいことだ」と感嘆した。
ササダンゴ・マシンさんが、プロレスの練習はすごく大変で「本当に疲れちゃう」。「その疲れを取るためにですね馬場さんは甘い物が大好物だった」。好きな甘いものはなんだったと思いますか?と問いかけると子供達からは「うまい棒」「ビール」「チョコ」「アイス」などの答えが返ってきた。正解は大福で、中條さんが「(地元の菓子店の)つるがやの大福が大好きだった」と細かすぎる情報を披露した。
児童からの質問コーナーでは、馬場さんはどういう病気で亡くなった?、馬場さんの嫌いな食べ物は?、亡くなった日はいつ?などの質問があり、「お酒はあまり飲まなかった。ガンがわかったのはなくなる2ヶ月前。それまでは元気だった」「好き嫌いなくなんでも食べた」「1999年1月31日」とそれぞれに丁寧に答えた。
最後に、馬場さんを名誉市民にする活動をした中條さんは「馬場さんはスポーツで初めて名誉市民になった人。皆さんがスポーツを志す時、アスリートとしてその存在を忘れずに、憧れの存在を見つけて勉強も含めてスポーツで頑張って欲しい。ぜひ、馬場さんを語り継いで三条の英雄を忘れないで欲しい」とメッセージを贈った。
6年生の田巻琉偉(るい)さん(12)が「馬場さんはプロレス以外でも野球や卓球をしていて、卓球では大会で優勝していてとても運動神経がいいことがわかりました。もっとジャイアント馬場さんについて知りたくなりました」と挨拶をして講師の二人に花束を贈呈した。
[伝記絵本 うえをむいてあるこう]
『うえをむいてあるこう〜ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』は馬場さん没後25年記念として、児童文学作家の第一人者、くすのきしげのり氏がストーリーを書き下ろし、人気急上昇の漫画家・坂上暁仁氏が絵を執筆して2024年2月に出版された。(303BOOKS)
裏館小学校PTAまつりの様子
2024年10月21日(三条市裏館小学校)
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